20171024

今日は気分が安定している。

昨晩、妻と今後の話をした。結婚式を延期したらどうか、ご両親に話をしたい、パートとして働くこと、等々。だいたいが受け入れてもらえたし、しばらくはやりたいようにさせてもらえることになった。もちろん、安定するまでは子供は作らない、という条件もついたが。

妻と話をすると安心する。ほかに鬱病について話せる友人もほとんどいないし、ぼくは、せっかく家族になったのだから、妻とたくさん話がしたい。もっとも、妻の方は機嫌次第で話してくれたりしなかったりするのだが。

認知の歪み

ぼくの認知は歪んでいると思う。思うが、どう歪んでいるのかは分からない。とにかく、ネガティブな方向に物事を捉えてしまう。


認知が歪んでいることがわかっても、その原因が分からなければ意味がない。いくつか思い当たるものを挙げてみる。

高校生のときに失恋したこと。
ぼくは高校二年生になってから、ずっと一人の女の子を追いかけていた。彼女はおとなしくて、きれいで、礼儀正しかった。ぼくはやんちゃな方だったが、一生懸命話しかけたり、連絡先を聞き出したりして仲良くなった。
生まれて初めて告白したのは彼女だった。二回も告白した。だが、フラれてしまった。途中で、ぼくが他の女の子になびいてしまったからだと思う。もしかしたら、そもそも成功するような恋なのではなかったかもしれないが。

フラれてからしばらくは、友達と遊びに遊んだ。そのときに女の子から告白をされたりもしたが、そんな気分にもなれず断った。この辺りから、ぼくの心に少し穴が開いたような気がする。


二つ目は大学生のときの彼女だ。以前も書いたが、彼女は精神を病んでいて、自殺未遂をした。なんとか助けたものの、他に男を作って消えた。感謝されたくて助けたわけではないが、あんまりだと思った。心に大きな穴が開いた。

思うに、ぼくは心の底から女性を信用していない。できない。裏切られるのが怖いから信用しない。妻のことは信用したいが、元カレの写真をいまだに持っていることで、不安が生まれた。まだ未練があるのでは、言い寄られたら身体を許してしまうのでは、ぼくと比べているのでは。こんな、鬱病の旦那など捨てて、そちらに行ってしまうのではないかと思うと、とても怖い。見捨てられるのが怖い。

誰かに助けてほしい。

ものを書くということ

ものを書くのが好きだ。

高校生のころは毎日のように映画のシナリオを書いていたし、大学生のころもmixiで日記を頻繁に上げていた。

今思えば、ものを書くことで自分の中に溜まっていた鬱憤を晴らしていたのかもしれない。文章という形で鬱憤を排出し、自分の中に残らないようにしていたのかもしれない。


ぼくの書くシナリオは本当に暗くて、その辺は特定されてしまうかもしれないので詳細は書かないが、とにかく暗かった。丁度、安部公房北野勇作小林泰三あたりにハマっていたというのも大きいかもしれない。夢か現か分からない中で主人公が苦悩し、解決したと思ったら実は何の解決にもなっていない。そんな物語ばかり書いていた。


サイレントヒル、というゲームがある。ぼくは2と3しかプレイしたことはないが、陰鬱とした世界で主人公が目的に則って探索をしたり、怪物を倒したりするゲーム、というのが大筋だといえる。

だが、ここが面白いところなのだが、サイレントヒルの怪物は主人公や、悩みを抱えたサブキャラクターにしか見えていない。錆と血にまみれた世界も、無垢な子供からすればただの古びた町並みにしか見えていない。怪物ですら、主人公(プレイヤー)からそう見えているだけであって、それらが何なのか、そもそも実在するのかどうかすら、ゲーム中では名言されていない。人によっては天使かなにかに見えているのでは、とすら思うことがある。


ペルソナシリーズも好きなゲームだ。4と5だけをプレイしただけだが、特に5では「認知の歪み」というのが1つのテーマになっている。ステージ(ダンジョン)は認知の歪んだ大人の作り出した世界で、主人公は反逆者としてその歪みを正していく。基本的には、体罰教師やヤクザまがいのチンピラが相手なのだが、1人だけ立場が違う人物がいる。のちに仲間になる彼女は、母親が死んだのは自分のせいだと思い込み、死にたいと思うようになってしまっている。これも認知の歪みなので、当然、ダンジョンになる。この認知の歪みを主人公たちが正し、彼女は感情に折り合いをつけることになる。


鬱病の人間は往々にして認知が歪んでいることがあるという。一度ダメだったら、一生ダメなのだと思い込む等。ぼくの認知も歪んでいるのだろうが、自分では歪みを認知できないところが悩ましい。

もちろん、ペルソナみたいに認知を変えてくれる義賊などいるわけがないし、サイレントヒルみたいに街が歪みを示してくれるわけでもない。ぼくの歪みは自分で何とかしなくてはならない。

妻の励ましは、ぼくの歪んだ認知ではクレームに聞こえてしまうが、実のところは、本当に心からの励ましを送ってくれているのかもしれない。ぼくが歪んだ認知を脱却し、それをそのまま受け入れられる日が、いつか来るのだろうか。

20171023

今日は悪くない気分だ。天気もいいし、朝から活動していた。

だが、昨晩は少し微妙な気持ちではあった。妻が過去の写真を整理していたのだが、昔の彼氏と写っている写真がほとんどらしい。そんなものは捨てていてほしかった。ぼくは、別れた恋人との写真は全て捨てた。痕跡を残さなかった。

妻が出かけている間に写真を見てみると、恋人らしき男と親しげにしている写真ばかりだった。まあ、ぼくも何人も恋人がいた過去があるのだから、人のことをいえた義理ではないが、そういうものは処分しておくべきではないだろうか。幸い、親しげにしているレベルで留まっていたので、さほど落ち込みはしなかったが。

父と話をした。来年に控えた結婚式を先延ばしにした方がいいのではないか、パートをしながら個人事業を行うのは難しいのではないか、お互いがストレスになるのならしばらく別居すべきではないか、妻の両親とぼくの両親とぼくたち夫婦で、一度話をすべきではないか。

親としてはやはり心配だというのはよく分かるし、妻の親御さんも不安だろう。こうなった原因はぼくにあるので、きちんと説明をしなければならない。だが、それが怖い。

人生でさほど躓かないで生きてきたし、ここにきて大きく躓いたな、と思う。が、父に言わせれば、いつかこの程度では躓いたとは言えないと思えるような日がくるという。

そんな日が本当に来るのだろうか。明けない夜はないともいうが、そもそも今のぼくは太陽がある場所にすらいないのではないか。そう思う。

20171022

今日は調子が良い。正確には、昨日の午後から調子が良い。

思い付く理由は、一昨日の夜から薬を再開したこと、病院に行ったこと、仕事をしたこと、両親に話をしたこと。たぶん、仕事というのが1番大きなファクターだと思う。

ぼくが初めて鬱になったときも、仕事をしていなかった。周りのみんなは仕事をしているのに、置いていかれてしまった気持ちになっていた。それがぼくを追い詰めていた、と今になって思う。

仕事をすると、ひとと関わっている気持ちになる。学生時代は一人になるのが嫌で、いつも誰かと一緒にいた。ぼくはそういう性質なのかもしれない。

妻とも話をした。病院に行ったと伝えると、いい顔はしなかったが、妻には妻なりの理由があるようだった。つまるところ、妻もはやく良くなってほしかったのだ。うつにとりつかれたように本を読み漁るぼくを見て、自分でうつだと思い込み、悪化させているように思ったらしい。

妻が口下手なのかぼくの認知が歪んでいるのかは分からないが、とにかく、妻は励まそうとしてそういった発言をしていることが分かった。もちろん、金銭面に関しては依然として厳しい状況が続いているが、今はなんとか改善させられるような気持ちになってきている。


今日は気分が良い。明日もそうであることを願う。

映画

映画を観ると気が紛れる。もともと映画は好きな方だったし、映画を作ったこともある。

だが、堂々と映画を見るわけにもいかない。鬱病であるのに映画を見ていると、本当は元気なのに怠けているのでは、と思われてしまうからだ。

ぼくは鬱病になってからも、プラモデルを作ったり、テレビを見たり、本を読んだりすることができた。街に出ることもできたし、車の運転もできる。だけら、ステレオタイプな鬱病のイメージとは違うのかもしれない。

鬱病が再発してから3ヶ月。ぼくは、妻のいない間に家にいるのがいたたまれなくなって、よく外出していた。とはいえ、何か目的があったわけでもなく、ただ街をうろついてみたり、本を読んでみたり、プラモデルを見に行ったり、そういう、好きなことをしていた。だが、それが鬱病らしく見えない原因になっているのかもしれない。

鬱病の人間は鬱病らしく振る舞うべきなのだろうか。一日中家にいて、寝込んで、何もしない状態であるべきなのだろうか。ぼくは、社会復帰のステップとして、まずは好きなことから始めてみる、ということが大切だと思っている。


新型うつ、というのをよく耳にする。仕事になると鬱の症状が出るが、そうでないときは旅行に行ったり遊んだりできる。だから、鬱ではないのではないか、単なる甘えなのではないか、という意見をよく目にする。

ぼくが新型うつなのかどうかは分からない(診断では鬱病のⅡ型、診断書は身体表現性障害、と書かれていた)が、鬱への風当たりは強い。特に、例えばぼくの妻のように、自分にも他人にも厳しい人間は、鬱への理解が無いように思う。

では、ぼくが理解してもらうために何かしたかというと、何もしていない。というのも、何かしたところで理解してもらえるように思えないのだ。

鬱の本で1番分かりやすいと感じたのは「ツレがうつになりまして」という本だ。鬱病の患者本人とその家族(奥さん)からの視点で描かれている。当然、ぼくは患者にシンパシーを感じるし、奥さん側の苦労も知ることができた。だが、妻にこの本を読んでもらったところで、その通りにしなければならないと捉えられてしまったり、甘えているのだと思われてしまうのではないかと思うと、怖くて勧めることができない。

たまに、妻から「私はどうしたらいいの?」と訊かれることがある。ぼくは答に困って、「いつも通りにしていてくれればいいよ」と答える。でも本当は違う。分かってほしい。辛さを共有してほしいとまでは言わないが、辛いことを分かってほしいのだ。


あなたは一人の時間がたくさんあるから、二人でいるときはもっと二人の時間を作りたいのだろうけれど、私は外で仕事を頑張ってきて疲れて帰ってきている。自由になれる時間がやっとできたのだから、一人で楽しめることをしたい。そうよく言われる。たしかにぼくは、ほとんどの時間を一人で過ごしている。でも、好きなことをできているかというとそうではない。何かをしていても楽しくない。焦りばかりが募ってくる。このままでいいのか、誰かに答を出してほしい。


誰かに助けてほしい。

できれば、妻に。