ものを書くということ

ものを書くのが好きだ。

高校生のころは毎日のように映画のシナリオを書いていたし、大学生のころもmixiで日記を頻繁に上げていた。

今思えば、ものを書くことで自分の中に溜まっていた鬱憤を晴らしていたのかもしれない。文章という形で鬱憤を排出し、自分の中に残らないようにしていたのかもしれない。


ぼくの書くシナリオは本当に暗くて、その辺は特定されてしまうかもしれないので詳細は書かないが、とにかく暗かった。丁度、安部公房北野勇作小林泰三あたりにハマっていたというのも大きいかもしれない。夢か現か分からない中で主人公が苦悩し、解決したと思ったら実は何の解決にもなっていない。そんな物語ばかり書いていた。


サイレントヒル、というゲームがある。ぼくは2と3しかプレイしたことはないが、陰鬱とした世界で主人公が目的に則って探索をしたり、怪物を倒したりするゲーム、というのが大筋だといえる。

だが、ここが面白いところなのだが、サイレントヒルの怪物は主人公や、悩みを抱えたサブキャラクターにしか見えていない。錆と血にまみれた世界も、無垢な子供からすればただの古びた町並みにしか見えていない。怪物ですら、主人公(プレイヤー)からそう見えているだけであって、それらが何なのか、そもそも実在するのかどうかすら、ゲーム中では名言されていない。人によっては天使かなにかに見えているのでは、とすら思うことがある。


ペルソナシリーズも好きなゲームだ。4と5だけをプレイしただけだが、特に5では「認知の歪み」というのが1つのテーマになっている。ステージ(ダンジョン)は認知の歪んだ大人の作り出した世界で、主人公は反逆者としてその歪みを正していく。基本的には、体罰教師やヤクザまがいのチンピラが相手なのだが、1人だけ立場が違う人物がいる。のちに仲間になる彼女は、母親が死んだのは自分のせいだと思い込み、死にたいと思うようになってしまっている。これも認知の歪みなので、当然、ダンジョンになる。この認知の歪みを主人公たちが正し、彼女は感情に折り合いをつけることになる。


鬱病の人間は往々にして認知が歪んでいることがあるという。一度ダメだったら、一生ダメなのだと思い込む等。ぼくの認知も歪んでいるのだろうが、自分では歪みを認知できないところが悩ましい。

もちろん、ペルソナみたいに認知を変えてくれる義賊などいるわけがないし、サイレントヒルみたいに街が歪みを示してくれるわけでもない。ぼくの歪みは自分で何とかしなくてはならない。

妻の励ましは、ぼくの歪んだ認知ではクレームに聞こえてしまうが、実のところは、本当に心からの励ましを送ってくれているのかもしれない。ぼくが歪んだ認知を脱却し、それをそのまま受け入れられる日が、いつか来るのだろうか。