セックスについて。

ぼくのセックス観が普通なのかどうか分からないが、そもそもセックス観というものを話すような文化では日本はないから、正しいセックス観、という文脈事態が間違っているのかもしれない。

ぼくのセックスは興味本位の部分と、征服感を得たい部分とに別れている。本当はもっと細かいのかもしれないが、大分するとその二つだ。

興味本位なのは、そもそも女性の性器についての興味。ぼくは男兄弟の家庭で育ったから、女性器を見る機会があまりなかった。それでも、いとこと風呂に入ったりして、見る機会がゼロではなかったのだが。だから、好奇心をそそられる。どうなっているのか仕組みが見てみたい。男のそれとどう違うのか見てみたい。触ってみたい。確かめてみたい。そんなところだ。

もうひとつは征服感。つまり、今ぼくが抱いている女性は自分のものであると思い込めるということだ。ぼくは、こと彼女に対しての独占欲が強いので、この征服感というのが非常に快感を得られるのだ。

書けば書くほど、なんと独りよがりなセックスなのだろう、と思う。結局、幸せなセックスなどぼくにはできないのだろうか。本を読んで勉強してみたいとも思う。


風俗に行ったことがある。シンガポールで挿入ありのものを、日本では所謂デリヘル、イメクラを。シンガポールでのセックスは大変だった。ことあるごとにチップを要求される、気の滅入るセックスだった。日本は良い。色んなジャンルのイメクラがあるから、自分好みのプレイができる。例えば、寝ている女の子に夜這いをかけるプレイとか、制服を来てもらうプレイとか。

風俗で女の子に拒絶されるのが怖い。これは恐らくぼくの根源的な恐怖だと思うのだが、許してくれると思っている相手に拒絶されるのが恐ろしい。恐ろしくてたまらない。だから相手に期待しなくなった。期待しなければ拒絶されることもない。そう思うようになってしまった。

だから逆に、期待されるのも苦手だ。期待というのも独りよがりなもので、早い話が相手を思い通りに動かしたいという欲求に過ぎないのではないか。ぼくは期待を裏切ることが怖くて、なにもできなくなる。期待されるのも怖いが、期待されなくなるのも怖い。ジレンマに陥っている。

ぼくのこの恐怖感は、つまるところセックスをすれば一時的には解決するのだが、妻がなかなかセックスをさせてくれないので困っているというわけだ。まあ、一時的ではなく根本的な解決が必要であって、むしろセックスから遠ざかるべきではないか、とも思うが。

ただ猿のようにセックスがしたかった昔と違い、今は承認欲求を満たすためにセックスをしたいと思うようになった。これが成長と呼べるのかどうかは、まだぼくには分からない。

妻が抱かせてくれない。

妻が抱かせてくれない。そういうことがあったとしても、月に一度あるかないか、だ。まあ、冷静に考えてみれば、仕事で疲れているし、旦那は鬱病だし、そもそもセックスが好きではないらしいし、仕方のないことなのかもしれないが。

昔、ぼくは浮気をされたことがある。妻ではなく、大学生の頃に付き合っていた彼女だ。彼女は浮気をし始めてから、ぼくに抱かせてくれなくなった。寝ている間に挿入して勝手に済ませて、とも言っていた。

だから、ぼくはセックスレスについて非常に敏感だ。セックスレス=浮気、と考えてしまうことがある。もちろんすべての女性がそうなのではないだろうが、ぼくは女運が悪かったから、どうしてもイコールで繋げてしまう。

女性の浮気は浮気ではなく本気だという。ぼくもいつかまた、浮気をされて捨てられてしまうのだろうか。

20171027

昨日はブログを書けなかった。というのも、気分が乗らなかったというだけで、別段の理由があるわけではない。

昨日、今日となかなか気分がよい。薬が効いてきたのか、あまり気を遣う人と会っていないからなのか。

思うに、ぼくは人と会うと気分が落ち込む。正確には、人と会うとテンションを上げなければならず、それで疲れてしまい後で気分が落ち込む、というところだろうか。

ただ、人と会うことも大切だと思っていて、というのも、人と会うことで自分から目を逸らせることができるのだ。だから、今までは毎日人に会っていて、気分が落ち込まなかったのかもしれない。

妻の写真について

妻の持っている元カレの写真について聞いてみた。二人での写真も残していることも包み隠さず教えてくれた。曰く、捨てられない性質なので残しているとのこと。消してほしければ消そうか、とも言ってくれた。

未練があるのかも聞いてみた。未練はないそうだ。嬉しかった。ぼくは代替え品ではなかったのだ。

話をしてみるものだと思った。

20171025

今日はさほど気分は悪くない。起きるのが少し遅くて妻から小言をもらったが、それでも7時過ぎには起きていたし、生活リズムは着実によくなってきている。

妻の残していた元カレの写真がひっかかる。今日あたり、帰りが早いようだし、話をしてみようと思う。どうしても残しておきたいと言われればそれまでだが、話してみる価値はあるかもしれない。


本を読むのが好きだ。高校生のときは毎朝読書の時間があったし、中学生のころは図書委員だった。

ぼくを本好きの道に引き込んだのは、原田ムネノリ氏である。氏の本は本当に面白かった。エッセイだったが、本当に笑えるエッセイだった。

氏は最終的に覚醒剤所持で逮捕されてしまったのだが、それでも、ぼくは氏の本が今でも大好きだ。氏のようなエッセイを書いてみたいとも思う。いつか、自分の人生を振り返って、笑って文字にできたらいいな、と思う。

北野勇作氏

ぼくは北野勇作氏の小説が好きだ。安部公房氏や小林泰三氏、森見登美彦氏の小説も好きだが、最も好んで読むのは、やはり北野氏の小説だ。

北野氏の小説は面白い。世界が滅んだあとの世界で、恐らくヒトが生み出したモノたちが、痕跡を辿りながらそれなりに生きていく。世界が滅んだというのは大きな戦争があったからで、登場人物たちは皆、戦争があったことこそ知っているものの、その詳細は殆ど語られないし、彼らもあまり気にしない。気にしないなりに、そして彼らなりに、すべきことに従って生きている。すべきこととはキャラクター各々だが、世界が滅ぶ前の人間が指示した仕事だったり、そうでなかったり。ヒトが滅んでもその痕跡だけは生き続け、彼らがそのために作った機械は稼働し続ける。ぼくのなかで一番しっくりくる例えは、目的地を設定したカーナビに従わず運転すること。いくら最短距離から外れた運転をしていても、カーナビは必ず目的地に着くように導く。それが彼らの使命で、存在意義だからだ。

北野氏の小説は、SFだが、限りなく私小説に近いと思う。恋人、妻、娘と、北野氏の環境が変化するたびに、物語のファクターになる人物も続き柄が変わってくる。ぼくも昔はシナリオを書いたことがあるから、その気持ちは少しでも分かっているつもりだ。結局、引き出しは自分の中にしかない。その引き出しの数や容量は人各々だが、それでも必ず、引き出しから物語は産み出される。その引き出しを大きく成長させることも創作に必要なのかもしれないが、等身大の引き出しから出てくる物語も、また大きな魅力を持つのだ。

今のぼくは引き出しにカギがかかってしまっているが、いつかカギを開けて中身を引っ張り出したいと思う。まあ、そのカギがそもそもどこにあるのかは分からないが、案外近くにあるのかもしれない。探し物というのは、往々にしてそういうことがある。



最後に、ぼくの個人的なオススメ小説を載せておく。これは鬱に効くとか、そんなことは全くないのだが、読み物として非常に楽しめる。興味のある方はぜひ、ご一読いただきたい。


「かめくん」
人間が戦争のために生み出したレプリロイドのかめ、かめくん。遠くで戦争はまだ続いているらしいが、どうにもその輪郭ははっきりしない。このかめくんは、工場でフォークリフトを運転し、図書館に行き、ミワコさんの研究に協力する。そんな、日常を描いた物語。

「かめ探偵K」
探偵でありカメ。カメであり探偵。日光浴とコーヒーが大好きなかめ探偵Kが、様々な謎を解決していく物語。

「人面町四丁目」
あの大きな災害があった日、主人公はとある女性に連れられ、人面町という町に住むことになる。そこは、かつての戦争と関係しているらしいのだが…。

「レイコちゃんと蒲鉾工場」
蒲鉾工場に勤める主人公は、ある日、レイコちゃんという女の子と知り合いになる。蒲鉾といってもただの蒲鉾ではなく、シリコンと基盤を組み合わせた蒲鉾、いわゆる隠語というやつで、戦争のために作られたそれらが一筋縄でいくわけもなく。古い町並みのなかで語られる物語。


非常に残念なことに、氏の小説は絶版になっているものも多く、ぼくもすべてを読んだわけではない(電子書籍として復活しているようだが、ぼくの環境では電子書籍は読みづらい)のだが、以上の作品がイチオシである。とっつきやすいものを選んだつもりだ。特にかめくんは比較的手に入りやすく、読みやすいと思う。

興味のある方は、ぜひご一読いただきたいと思う。

それでいい。を読んで。

細川氏の「それでいい。」と「わたしの主人公はわたし」を読んだ。
今の自分を肯定すること。筆者は自称ネガティブクイーン、とのことだが、その事実を否定せず受け入れる。ぼくに当てはめてみれば、鬱病の自分を受け入れることだ。

今のぼくの自己評価は限りなく低い。仕事はほとんどしていないし、肩書きもない。チマチマとちょっとしたモノを作り上げているだけ。

でも、仕事となれば一生懸命やるし、家事だってこなしているし、チマチマしたモノでも、納品先の相手は喜んでくれている。裏を返せばこうなることに気付いて、ハッとした。

ぼくは生産性が限りなく低い日常を送っているが、ゼロではない。ゼロではないということは、かけ算をすることができる。人生におけるゼロベースの足し算はかなりの苦労が伴うが、かけ算なら、まだなんとかなるのではないか。そう思った。

昔読んだ本で、性格は変えられるという一文を見た。性格というのはもって生まれた部分も大きいが、単なる習慣の積み重ねであるという。筆者は、怒りやすかった自分を変えた。ぼくも、このクソみたいなマイナス思考を変えることができるのかもしれない。


今日は妻に手紙を書いた。クリスマスに渡すつもりだ。感謝の言葉が半分、懺悔が半分。そんな塩梅だ。半分以上自己満足みたいになってしまったが、まあ手紙なんてそんなものだし、よしとした。そもそも、ぼくは長文をだらだらと書く癖があるし、だらだら続けたあとに本題をポン、と出す。プレゼンなら最悪のやり方だが、物語を書く上では効果を発揮することもある。この手紙も効果的になればいいし、効果が発揮されなければ、それはそれでまあいいのではないか、と思えるようになった。

ぼくは自分の人生をひとつの物語として、俯瞰して見てみることにした。そうすると、今まで色々なことがあったし、悩みもあったが、今となってみれば案外、なんてことのないことではないかと思えてきた。そして、先のことについて考えるのも馬鹿馬鹿しくなった。物語の先を予想するのは買ってだが、それは往々にして裏切られる。特に、王道パターンのやつは。ぼくの人生が王道かどうかは分からないが、覇道にはしたくない。まだ人生の舵は取れる。

たぶん。